御砂堂と「オスナ様」
吾鹿山の南面中腹には、石灰岩の白い岩壁が露出した目立つ箇所がある。その真下に小さな洞窟があり、「御砂堂」という立札と、小さな祠が祀られている。一昔前は獣道を登らなければならなかったが、現在は遊歩道が整備され、吾鹿第2ダム横の駐車場から容易に行くことができる。
古来より水神として祀られていたその祠が御砂堂、またはオスナ様という名称で呼ばれる様になったのはごく最近の話で、前の大戦──火旺戦役の前後辺りからと言われている。それは、この洞窟の学術的な調査が本格的に行われ始めた時期と重なる。
御砂堂の「オスナ」とは、古代火元の歴史書に見える「於須奈比古の叛乱」という、地方豪族の反乱伝説に由来する。伝説中に周辺地域の古名が連なり、当地にも類似した民話が残る事から、調査が始まるよりも更に早い段階で、反乱の舞台が吾鹿山周辺であると比定されていた。
長らくの間、「於須奈比古の叛乱」は飽くまで伝説であり、実際に起きた反乱を記したものでなく、古代火元が国家として成立していく過程を象徴的に表現するための、神話の一部とされてきた。その認識が、御砂堂洞窟をはじめ、同時期の周辺遺跡の調査が開始されるにあたって、変化し始めたのだった。
御砂堂の調査が開始されると、洞窟周辺からは古代から近世に至るまでの祭祀に関わる遺物が多く発見された。中でも古代の遺物の量が多く、祭祀用具、生活用具に混ざり、人の手足を精巧に模して象った、用途不明の土製品が目を惹いたという。
「於須奈比古の叛乱」伝説には、人間と見紛う程精巧に造られた土の人形が登場し、里を混乱に陥れる。人形に取って代わられた豪族・於須奈比古の亡骸が横たわっていたのは吾鹿山中の洞窟だ。洞窟から手足を模した土製品が出たとなれば、当時の関係者はこの伝説に関連付けずにはいられなかっただろう。
この奇妙な土製品の発見と、歴史書との関連については、地元の発掘従事者伝いに村落に広まり、洞窟に祀られた水神社はいつの日からか「御砂堂」「オスナ様」と呼ばれる様になった。(吾鹿山周辺では、伝説中の化け物退治の件が民話として残されており、「護砂丸」という名で語り継がれていた。)
しかし、当時の調査に関する資料は少なく、現存するものは、当地の資料館が収蔵している僅かな出土品と実測図、関係者の手帳一冊のみである。手帳からは現存するより多くの遺物が発見されたと推測されるが、その殆どが何故か軍により接収されており、例の土製品も含め、戦役後の行方が知れない。
※このお話はフィクションです