東都を潤す一級河川、吾鹿川(あじかがわ)。その支流、伊比川(いひがわ)の合流点から西に十里上流に行くと、箸の渡(はしのわたし)と呼ばれる青石の渓谷があり、周辺の村落には、このような話が残されている。
……
その昔、伊比の里に孝行な男がいた。重い病に臥せた母親のため、どこかに薬になるものがないかと、日々山に分け入っていた男がいた。
ある日、男はいつもより遠出して、見知らぬ川にたどり着いた。その澄んだ水を男が覗き込んでいると、川上の方から、漆の塗られた小さな木鉢が流れてきた。男はそれを拾い上げ、不思議に思った。
男は、こんな山奥に入っている里人が、他にも居るのかしらと思い、川上の方へ歩いた。しばらく行くと、向こう岸の木蔭に、誰か手仕事をしている者がある。男が目を凝らしてみると、何処かで見覚えのある顔だった。里の名主の妻ではないか。
男は身震いした。その目に見たのは、幾年も前に死んだはずの女が、川の水で器や衣を濯いでいる姿だったのだ。男が河原に棒立ちになっている間に、女の方から声がかかった。
「このような山の中に、何のご用です」
しっかりと張った声に、男は恐る恐る、山奥に分け入った訳を話し、川下で拾った木鉢を女に投げて渡した。木鉢を受け取った女は深く頭を下げた。
「私が何とかいたしましょう。三日経ちましたら、またこの川辺にいらして下さい。ただしこのことは、決して、誰にも他言なさらぬよう」
そう言って、女は向こう岸の林の中へと消えていった。
丁度三日経ったころ、あの名主の妻が言った事を守った男は、山へと入り、再び川辺へと足を運んだ。約束通り、女は向こう岸で男が来るのを待っていた。
女は岩の上から、男に向かって小さな包みを投げ渡して言った。
「もう、お会いすることもないでしょう。この川辺のことも、どうかお忘れください」
男が包みを解くと、中にはなんとも芳しい香りの霊薬が入っていた。男は礼を言おうと再び向こう岸に目をやったが、その時に女の姿はもうなかった。
男が薬を持ち帰り母親に飲ませると、みるみる内に生気を取り戻し、その後長いこと元気に暮らした。
この時、女が薬を投げた岩と、男がそれを受け取る時に立っていた岩が、細長く、箸の様にも見える事から、この一帯を、箸の渡と呼ぶようになったのだという。
※このお話はフィクションですじゃ