──(この人体を精巧に模した土製品を偶人、その一部のみのものを偶人片と表記する)
甕山(もたいやま)の西側斜面の麓、海抜60〜110mの台上は、南面の眼下に広がる予津浜湾を一望できる地域だ。かつては現在の樺根地区全域と土森地区の北側に一部跨がる形で、甕山海軍庁舎が存在していた。現在は樺根地区に哨所の基礎部分と説明板を残すのみであり、周辺は戦後に区画整理が行われた末に、昨今までには閑静な住宅地となっている。
字に残る土森という地名が示すように、かつて甕山西側の段丘上の山林や農地には古代の墳墓が集中していた。海軍庁舎用地の造成中にも、小規模な墳墓が20基あまり確認され、調査の後には大多数が削平されたという。現在、墳丘として現存するものは、土森中央公園内に1基、その北側にある私有林内に3基の計4基を数えるのみとなっている。
この古墳群の調査が行われた火紀930年代といえば、時期的に火旺開戦前夜の段階であり、当地の調査も軍関係者立会のもと旧考古院主導の調査がされていた。その記録は一部のものを除き、945年晩冬に激化した東都空襲により、一浜区杭崎町に所在していた考古院第2分室ごと焼失してしまった。
戦火を免れた一部の記録、それは火紀931年頃に個人により筆写されていたもので、現在は吾鹿町の資料館に収蔵されている。それは庁舎の建設に関わった、ある海軍関係者の手記の形を採っており、主に樺根地区南半分の台上に関わるところの発掘状況の一部が記されていた。その中に、奇妙な記述が残されている。
火紀九百三十一年 十ノ月十三日 本庁舎北西側、厠棟建設予定地内に於て石槨の検出有り。元来は積石が施された墳墓の様相であった所、後世農地開墾に伴い切崩されたる其跡と見られる。
十五日 焼締陶製棺内より男体を精妙に模したる人形1軆、完態の出土。杭崎分室の調書に拠る所、吾鹿村に四肢片の類例有りとの事。工期との兼合より、此発見は当初公にせずとの判断。
十七日 偶人含め出土品は一時的に作業員詰所に集積、東都考古院による分別を待つ。用地視察のため海軍関係者の立入が有りし同日夕刻、偶人徐に半身を起し、人間の所在と違わぬ振舞を見せ、其口よりものを云う。一同驚愕せり。
この手記によれば、本来ならば人間の遺体が葬られているはずである陶製の棺から、人の形を精巧に模した人形、すなわち偶人が発見された。そして驚くべき事に独りでに起き上がり、言葉を発したとされるのだ。
前述の通り、この資料は考古院による公式記録ではなく、あくまで個人の筆写である。元の資料も焼失しているため、偶人が動き出した云々の記述に関しては、故意に加筆された可能性もあるため信憑性に欠く。加えてこの時発見された当の完態偶人というのも、注目されるものであるにも関わらず、その現物自体も戦中期に行方知れずという有様である。
しかし、当該記録の前後に綴られた庁舎建設に関わる記録に関して、当時基礎工事に関わった都内企業の金庫から、同一内容が記された計画書が発見されている。何らかの意図を持って、この記録に幻想を織り交ぜた可能性も大いにあるが、この資料の性格から見るに、この偶人出土の事柄に関して全くの虚構であると断言し難いところもある。
残念ながら、完態での偶人出土例は前述の手記による記録の他に例がない。しかし、偶人片の類例は甕山地域より北、約30kmに位置する吾鹿地域および伊比地域において出土事例があるとされる。これら偶人片については、それと思しき微細な欠片と実測図が数点残されているのみであり、手足等の形状を留めたものは火紀943年頃、東都周辺地域の文化財疎開計画への同意を理由に現地から散逸してしまっている。
偶人、偶人片ともに同時期の吾鹿川流域においてのみ確認されている事から、甕山古墳群を造営した集団と、吾鹿地域の集団間には、偶人制作に関して技術的、文化的な交流があった可能性がある。この偶人の存在について、国内の他地域、あるいは国外において新たに関連遺物が発見される時が訪れれば、未だ謎多き古代火元の複雑な様相が、徐々に見えてくるのかもしれない。
この地に残された「於須奈比古」の伝説も、その全てが古の先人達が謡う物語の世界そのまま、という訳ではなさそうだ。
(この物語はフィクションです)